最近家捜しのために札幌にいったりと、いろいろ忙しかったため、更新が滞ってしまった…
今日からはがんばって再開しよう!


札幌で家捜しをしていた。
仲介業者の人に車を出してもらい、条件に合いそうなところを実際にみせてもらう。
さすがにこの時期になると、いい物件もほとんどなくなっているようで、理想の物件はなかなか見つからない。

実際にまわりはじめて4,5件目くらいだろうか?
車を路上に止め、4階まであがり実際に部屋を見せてもらう。
でもどうも気に入らず、また次の部屋を見せていただくべく、部屋を出る。

そして1階におりマンションのドアを開ける。
あれ?
おかしい、さっきとどこか違う。

車だ、止めたと思っていたところに車が見当たらないのだ。
でも正直、自分でとめたわけではないし、ボクの勘違いかなと思い(実際ボクは方向オンチで車を止めた場所とかをすぐ忘れてしまう…)、一緒にまわってくれていた仲介業者の方の方をうかがうように見る。

すると、仲介業者の方も豆鉄砲をくらったハトのような表情であたりをきょろきょろ見回している。
二人とも頭のもっとも理性的な部分では事態を把握していながらも、現実をなかなか受け入れられず、しばしただ呆然と立ちつくしていた。
そして目の前のできごとをじぶんに納得させるため、お互い顔を見合わせ、最後の確認をする…

仲介「車、ここに、止めました、よね…?」
ボク「たぶん…」

そして車はいなくなった…

しばらく二人であたりをうろうろしていたが、当然車は見つかるはずもなく…
幸い、ボクは財布と携帯電話は身に着けていたが、その他旅行かばんやコートなどはすべて車につんだままだ。

すぐに警察を呼び、盗難届けを出したものの、そうすることで失くしたものを自分であらためて実感することになり、失ったものの大きさを知る…

その後はまた部屋探しに戻り、部屋は決めたものの、心の穴は埋まらなかった。
夜は以前行って感動したジンギスカンを食べに行こうと思っていたが、そんな気力も当然わかず…
部屋でビールを飲み、ふて寝して、翌日、手ぶらで京都に帰ってきた。
なんともついてない旅だった…


追記
先ほど連絡があり、車は見つかったそうです。
ボクの荷物も、何点かはないもののほぼすべてあったそう。
でも、やはりないものもあり、その分は弁償していただけるとのこと。
まぁ、ひとまず安心。

昨日『AERA』のことを書いた。
たしかにおもしろい。
でも雑誌やテレビのニュースを見ていて、ボクはいつもある違和感をもってしまう。
それは、
「編集者やディレクターが上手く情報を取捨選択して、都合よくしあげているなー」
ということだ。

たとえば、昨日もとりあげたが、今週号の『AERA』では「女性は男性より弁がたち、男は口下手」ということについての特集があった。
なるほど、たしかに全体としてみればそういう傾向はあるだろう。

でもそれはあくまで「傾向」だ。
実際には、弁がたつ男性だっているし、口下手な女性だっている。
しかし雑誌上には上のような「傾向」から外れた人についての記述はまったくない。
あるのは、その「傾向」を強力にサポートするような人とそのエピソードばかりだ。

なるほど、ウソはどこにもない。
でもそういうのを見ると、ボクは「なんだかなー」と思ってしまう。


雑誌はまだいい。
テレビはもっとひどいように思う。

大きな事件の犯人が捕まると、ニュースでは必ずといっていいほど、近隣住民へのインタビューを流す。
でもたいていの場合、その内容は以下の2つの内どちらかのような気がする。

「ああ、やっぱり!いつもあいさつもしないし、聞いたときはやっぱりと思いましたよ。」
「ええ!あんないい人が!?とても信じられません!」

もし犯人が社会的地位も低くて、人相も愛想も悪かったら上、その逆だったら下、というふうに、もうなかばお決まりだ。

もちろんそういう大半の人が思うのとは違う印象を持っていて、それをインタビューで言うような人もいるのだろう。
でもそういう意見はよほど鋭くない限り、放送されることはまずないだろう。

こういうのを見ていると、情報を選択しているどころか、もう最初から流す内容は決まっていて、それに沿ったようなことを言うことを要求されているように感じる。
そして視聴者にも同じイメージを持つことを強要しているようにすら感じる。


真実はひとつなのに、その見せ方(編集の仕方)ひとつで見え方は全然違ってくる。
編集というのは本当におそろしい。
その術中にはまらぬよう、真実を見きわめる目を養わねば。


『AERA』面白い。
スタバで読みふけってしまう。
ネタ満載で、『AERA』のネタだけで1週間分のエッセイが書けそう。

今週の面白かった記事。

■中高一貫女子高特集
ウチの姫の出身高校も紹介されている。
なになに、
「普通の女子は夫自慢をするのに、J(高校名)の女子は夫のデキの悪さで張り合います。同窓会に夫を連れてくると、夫は妻の3歩後ろを歩き、みんなで夫をお笑いのネタにして遊びます。J生の夫になれるのはマゾか外国人くらいです。
ははは…
って笑えないんだけど…


■チチエモン(ホリエモンの父)の教育論
なんでも今チチエモンさんのところに1日十数件の子育て相談があるらしい。

なんていうか、そういうことをしてる暇があったら、もっと子供と向き合う努力をしたほうがよいんじゃないでしょうか?
チチエモンの教育論にはボク的には納得できるところも、納得いかない部分もあったけど、最後の
「育て方を相談してくる人もいますが、がそれは違う。ライオンの親にトラは育てられんとです」
という部分には同意。


■男が勝てない会話力格差
女性の会話力の前で圧倒される男たち…
そういえば、この前、就職先の研修でグループディスカッションしたけど、女の子ばっかしゃべってたなぁ…
長崎佐世保事件の感想を書かせても、女の子は鋭い意見を連発するのに、男は、
「殺人はいけないと思う。被害者も悪口を書いてはいけないと思う。」
こんなのばっかりらしい。
分かる、分かる。
確かにblogにしても男のはそんなのが多くて、そうじて女の子のblogの方がおもしろい。

聞き上手になるための男の秘訣、「助言をしない。」
うっ、痛っ!
他の方のblogのコメントにもこんなんばっか書いてるぞ、ボク…
ボクに説教くさいコメントを書かれた方、すいませんでした(笑)


■男のスイーツ特集
コンビニスイーツは、
男にはプリンやシュークリームなどこってり系、
女にはゼリーやヨーグルトなどあっさり系、がよく売れるらしい。
へぇ~、逆だと思ってた。


■女の駆け込み婚
女性は大変ですよね。
いろいろまわりのプレッシャーとか。
特に最近は『負け犬』なんて言葉がはやって、さらに「早く結婚しないと…」みたいなプレッシャーが強そうだし。
今でも、「結婚こそが女の幸せ」とか思っている人は多そうだし…

「必ず失敗する結婚、3か条」には納得。
・恋愛期間中にケンカしない
・自分が相手を変えられると思う
・決断を他人にゆだねる

さらに「『負け犬』とは自分の意志でなく、周りに流されて納得できない人生を歩んでしまう人」なんて定義まで。
まさしく、言い得て妙なり、って感じ。


こんな感じでひとりいろいろとツッコミながら読んでたら、本当に楽しかった。
これからネタに困ったら、雑誌を読もう。

昨日は追いコンではしゃぎすぎ疲れたため、ボクは朝7時くらいから16時くらいまでぶっ通しで爆睡…
こんなグータラなボクとは対照的に、姫は同じく追いコンでALLで遊んでたにもかかわらず、2時間だけ寝て颯爽と実験に出かけていった。
超人…

姫がそんなにがんばってるのに、ボクだけグースカ寝てるのはホントに申し訳なかったので、昨日はせめてもの罪ほろぼしに、晩ご飯をつくった。
といってもご飯に、みそ汁、それに鶏肉のカシューナッツ炒めだけという、30分もあればできるような簡単メニュー。

それでも姫はとても喜んでくれた。
つらいことがあったから余計にうれしかったのだろうけど、半ベソになって喜んでくれた。


姫はなにかしてあげると、ホントに敏感に気付いて、感謝してくれる。
たまに大げさすぎて、こちらがびっくりしてしまうくらいに感謝の気持ちを表してくれる。

ボク自身、ホントにダメ人間で、自分ひとりだと料理や洗い物なんかもする気があまりおきず、いつもテキトーにすましている。
ひとりだと朝、昼とも食パンだけ、なんてのもざらだ(笑)
だけど、なにかして喜んでくれる人がいると、ひとりの時はやる気がおきないようなことでも、楽しい気分でできる。
喜んでくれる顔とかを想像して、こみあげてくる笑いをかみ殺したりしながら。

姫にはホントに感謝し、されることのうれしさ、素晴らしさを教えてもらった。


ボクも実家にいた頃は驚くくらい感謝のできない、恩知らずなクソガキだった。
今振り返ると、本当に救いようがなかったと思う。
オカンは仕事を持っているにもかかわらず、家事はオカンがするものと決め付け、なにも手伝わないばかりか、忙しくて立ち回らない部分を目ざとく見つけてはエラソーに文句を言っていた。
よくいる高校生のように、中身はすっからかんなのにプライドだけはやけに高い、ハリボテのようなクソガキだった。
自分がちっぽけな存在だと認めるのがイヤで、羽を広げたカマキリみたいにいつも虚勢ばっかりはっていた。

そんな人間が他人に対して感謝なんてできるわけがない。
他人が自分のために何かしてくれるのは当たり前、だから感謝なんてまったく必要ない…
意識してはいなくても、無意識ではそう思っていたのだろう。
ホントに救いようがなかった。

そんなクソガキも一人暮らしをして、家事の大変さ、親の大変さを実感したり、姫に感謝し、されることの素晴らしさを教えてもらったりして、遅ればせながらようやく人並みに、他人に感謝できる人間になった。
親に対しては本当に申し訳なさと、感謝の気持ちでいっぱいだ…
今だったら、口が裂けても昔吐いたような文句は言えない…


そのせめてもの罪ほろぼしに、これからはどんなささいなことにも、いつも感謝の気持ちを忘れないでいようと思う。
それによってまた感謝されることのうれしさ、素晴らしさを体感できる人がいてくれればな、と思う。
また誰かと一緒に人生を歩んでいく時も、一生お互い感謝の気持ちを持ち続けられるような関係でいたいと思う。

昨日は部活の追いコンがあり、参加させてもらった。
夕方7時から明け方の5時までいろんなところに行き、とても楽しい時間がすごせた。

その追いコンの3次会でいわゆる「オカマBAR」なるところにはじめて行った。(ここは選択性だったので全員が行ったわけではないですが…)
ボクたちの相手をしてくれたのはCさんと、Rさんという方で、二人ともかなりキレイな方だった。
しかも胸までちゃんとあってびっくり。

胸まであるということは、おそらくこういう場所によくある、パフォーマンスとしての女装ではなく、二人とも本当に女性になりたいという思いを持っている人なのだろう。
でもそういう思いを抱えて生きていくということは簡単なことではないと思う。


偏狭な社会においては、そういうある意味特殊な人を容赦なく排除したがる人が多い。
たとえば就職活動で、性別上男性の性同一性障害の方が女性もののスーツを着て面接に現れたら、一体どれだけの企業がその人の能力を公平に評価できるだろうか?
最近は性同一性障害を公表した人が選挙に出て、当選したという話もあるようだが、そういう例は稀だろう。
親にすら受け入れられないケースも多々あると思う。

そのように社会や家族にすら簡単には受け入れられないような状況で、特殊な自分を受け入れるということは本当に難しいと思う。
だから自分の性別に対する違和感を抱えながら、本当のことを言い出せず、表面上は自分の性別を受け入れているかのように、生活している人も多いという。
それも社会の偏狭さからすればいたしかたないのかもしれないけど…


だから、そういうある意味特殊な自分の一面を個性と認め、受け入れている人は本当に強い、とボクは思う。
昨日のCさんやRさんにしてもそういう自分を受け入れ、自分の自由に生きることによって、今までいろんなものを失ってきただろう。
でも失うことにめげず、自分の個性を尊重し、仕事にまでしちゃう強さには心から敬服する。


昨日はもうかなり酔っていて、本当に聞きたいことは何も聞けなかったけど、今度行く機会があったら、失礼でない範囲でもっと踏み込んだ話をしたいな、と思った夜でした。

今日は姫と一緒に、録画しておいた昨日放映分の『ごくせん』を見た。
毎回見てるわけではないけど、世間の流れに流されてここ2回ほどは見ている。

昨日の話のあらすじはこんな感じ。
世間的には「不良」といわれる高校生。
子供の意見をまったく聞かず、自分の考えを子に押し付けるその親。
当然のごとく対立するが、ヤンクミの助けもあり最後に和解。
単純ではあるけど、ボク的には大好物な部類の話。


でも程度の差こそあれ、こういう関係の親子は世間にかなり多いと思う。

子供のことを心配するがゆえ、子供の幸せを願うがゆえ、ついつい子供に自分の考えを押し付けてしまう親。
「こんな成績でどうするの!もっと勉強しなさい!」
「がんばって勉強して、いい大学に入って、いい会社に就職しなさい!」

そういうことを平気で言う親は「いい」大学や「いい」会社に入ることこそ、万人に共通する幸せだと固く信じてしまっている。
そしてそれが当然自分の子供にも当てはまると思ってしまう。
自分の考えが、自分の価値観が生み出したひとつの「思想」である、と気付かず、すべての人にあてはまる「真理」だと盲信してしまっているわけだ。
だから子供の声が聞こえない、聞こうとしない。
だって自分の考えは「真理」なのだから…

でも子供にだって子供なりの考えがある。
幼く、未熟であるがゆえに、それが確固とした形をとっていなかったとしても。
それを探そうとして必死にもがいているのに、親は何もアドバイスをしてくれず、口を開けば「勉強しなさい!」

そりゃ対立もする…

だから親ももっと子供と向き合わないといけないと思う。
どういうことを考え、どういうことに興味を持っているのか。
そういう考えを踏まえたうえで、
「そういうことに興味を持っているなら、こういう職業があるよ、そしてそれになるためにはこういうことをすべきだよ。」
なんていう具体的なアドバイスをしてあげるべきだと思う。
子供の幸せを真剣に願うなら。
はっきりって、ただ「勉強しなさい!」というのは、親が何も考えてないから、そうとしか言えないだけだと、ボクは思う。

自分はそういう大人(親)になりたいな、と今は思うけど、将来はどうなることやら?
何度も言うけど、人は理念だけでは動けないから。
でも少なくとも、子供に対して誠実で公正な接し方のできる大人になりたい、と思う。

※あとがき
ボク自身まだ子供なので、子供の立場から大人に言いたいことを、好き勝手言ってみました。
ボク自身の個人的恨みもかなりこもってます(笑)
大人には、それは子供の甘えだ、と怒られそうですね。
よく行く、好きな場所のひとつに図書館がある。

ただでさえ学生でお金がないのに、ボクが読むペースで本を買っていったら、冗談じゃなく破産してしまう。
だから基本的に文庫本は本屋で買い、単行本は図書館で借りて読むことにしている。

ボクが普段行くのはホントにちっちゃな図書館だ。
ワンフロアだけで蔵書もそんなに多くない。
でも文芸書はそこそこ揃っていて、不自由をあまり感じないし、静かな上に日当たりがとてもいいので、気に入っている。
これで司書さんがもう少し愛想がよかったら完璧なんだけど…

その図書館では、本を借りた時に、借りた本のタイトルと返却日が書かれたレシートくらいの大きさの紙(便宜的に「貸し出しレシート」と呼ばせていただきます)を一緒に渡してくれる。
この本を貸しましたから、いついつまでに返してくださいよー、というわけだ。


ある日、図書館で借りた本を読んでいると、1枚の小さな紙がはさまっていた。
そう、他の人の「貸し出しレシート」だ。

ボクはその紙を見ながら、
「ふ~ん、この人はこんな本読んでるんだ。結構趣味あいそう。どんな人だろ?カワイイ女の子だといいな。」
なんてことをぼんやりと考えていた。
そして次の瞬間、頭の中で何かがひらめいた。


そう、自分の「貸し出しレシート」を自分が借りた本にわざとはさんだまま、本を返すのだ。
図書館の司書さんもわざわざそんなところまでチェックしないだろう。
第一ボクが借りた本にははさまっていたわけだし…


図書館も昔は、本の表紙の裏に「貸し出しカード」みたいなのがついていて、その本を借りた人の名前が次々にそこに書き込まれていく、というシステムのところが多かった。
でも最近は全部電子管理されているから、そういうものは姿を消してしまった。
個人情報うんぬんが声高にさけばれるようになったこともその一因だろう。
ちょっと昔の本を借りると、表紙の裏には「貸し出しカード」の残骸が残っていて、少し哀愁を感じる。

でも昔ながらの「貸し出しカード」を懐かしむ人も結構いるのでは、とボクは思う。
たくさんの本を読んで、多くの本に自分の名を刻んで自己満足にひたったり、そのカードに書かれたたくさんの名前の列を見ながら空想にひたったり…
スタジオジブリの映画、『耳をすませば』の雫ちゃんと聖司くんの素敵な恋も、きっかけは「貸し出しカード」。
ひょっとしたらそんな出会いが…、なんてちょっぴり期待する人もきっといたはず!?


「貸し出しカード」と違って、「貸し出しレシート」には本のタイトルと返却日が書いてあるだけで、個人情報の類はいっさい書かれていない。
だから、「貸し出しレシート」をはさんだところで、出会いがあるわけじゃない。

それでもボクは、本を返す時、本にそれをはさむ。
そう、ほんのささいなイタズラ。
ボクの「貸し出しレシート」を見て、他の誰かがいろんな空想をしてるんじゃないか、みたいなちょっとしたワル巧み。

次はどんな人がその本を借りるのかな?
男の子?女の子?それとも主婦?
そしてそれを見た人はどんな想像をするのかな?
カッコイイ、理想の異性を想像してるのかなー?

なんてことを想像しながら一人楽しんでます。
え、趣味が悪い?
ふふふ、でもこれだけはやめられません。

■お風呂
今日も特別することのない暇な一日。
本当は引越しの手続きとか、就職先の通信教材とか、しなければならないこともある気がするけど、気にしない。

今日は朝から雨が降っているので鴨川にはいけない。
ってことで、家でお風呂をわかして、入浴剤を入れて、ビール飲みながら読書することにする。

気分は、昔洋画で見てあこがれたバブルバス。(実際は普通の入浴剤だけど…)
たまに一人で洋画のおねーさんのように片脚を上げてみたりするけど、実際でてくるのはあんなキレイな脚じゃなく、ムダ毛いっぱいのきたない脚…
それで一瞬気分が萎えかけるけど、そんなこともすぐ忘れてしまうくらい、いい気分♪

働かず、昼まっからお風呂、ビール、本にかこまれる。
あくせく働く社会へ、思いつくかぎりのアンチテーゼをかたっぱしからつめこんだ、まったり生活。
うーん、幸せ♪
その仕方は変われど、いくつになっても社会に反抗することはとても魅力的だ。
いいよね、4月からはあくせく働かないといけないんだから、最後のモラトリアムを謳歌するくらい?


■読書メモ
『吉本ばなな自選選集 Life』
「おやじの味」、「新婚さん」、「ひな菊の人生」、「哀しい予感」、「ある光」。

「おやじの味」だけやけに記憶が鮮明だと思ったら、最近『体は全部知っている』を読んだからだった。
他、特に深い感慨もなく。
吉本ばななワールドやなー、って感じ。

ただ
「子供時代の呪縛から完全に逃れられるものはいない」
というくだりは、とても悲しかった。
ここでも何回か書いているが、人間通しの関係、接し方にとても興味がある。
そしてできれば、なるべく多くの人といい関係を築きたいと思っている。
それにはやはり本を読んで、いろいろな人間関係のあり方の例を見て、擬似体験するのが一番手っ取り早い、と思う。
そしていい関係を理想とし、ダメな関係を反面教師にして自分を成長させようとしている。
だから本を読むのが好きだ。

こういうことに興味を持っているからか、よくない人間関係、歪んだ関係を見ると、どうしても我慢できない。


理想の関係を築いていく上で、最低限満たしていなければいけない条件は、「対等であること」だと思う。

でも人と人が関わりあうと、そこにはどうしても力関係というか、無意識の上下関係が生じやすい。
教師と生徒、親と子、上司と部下、のように社会的な力の差が大きい時に、特にそうだと思う。


年上の人や先輩には敬意を払いなさい、とよく言われる。
それにはさすがに異論はない。
敬意を持って接したからといって、よほどのことがない限り、人間関係は歪まない。

ただ、そこで絶対してはいけないことは、敬意を払われる側が、その敬意の上にあぐらをかいて、敬意を払う側を見下してしまうことだ。
それをしてしまうと、人間関係は歪む。
圧倒的に歪む。

村上龍さんが『最後の家族』かなんかのあとがきで、
「相手を見下すことは、容易に暴力につながる。」
みたいなことを書かれていたが、まさにその通りだと思う。

相手を見下してしまうと、その相手は自分の所有物のような錯覚に陥ってしまう。
そこまではいかなくても、必ず相手を自分の思い通りにしたい、いや、
相手は自分の言いなりにならなくてはいけない、と思ってしまう。
相手の役割を勝手に自分で決め、相手をそのせまい檻の中に押し込め、そしてそこから脱走しようとすると怒る、あるいは最悪の場合殴る。


でも実際、こういう大人は多いと思う。
生徒はただ勉強すればいいと決め、それ以外のことを許さない教師…
子供は親の言うことを聞くものと決め、自分の願望を押し付ける親…
それらは上のようなケースの典型例だと思う。

「生意気言うな!」とか、
「オレに口答えするのか?」
なんてセリフが無意識に口をついて出る時なんかも同じだ。

そんな状態では絶対にまともな関係は築けない。
絶対に。
まともだと思っているのは、しいたげる側だけだ。
しいたげられる方は…


だから他人との関係を築く時は、絶対に相手と対等であろうとしなければならない。
たとえ、どんなに年齢が離れていようが、子供に対してであろうが。
それがいい関係を築く第一歩だと思う。


でもこんなことを言いつつ、ボクには苦い思い出がある。

ボクは学生時代馬術をやっていた。
馬術ではなにより人と馬の信頼関係が問われる。

普段は馬のことをなにより考えているフリをしながら、でも結局は馬のことを自分の所有物としてしか見れていなかったんだと思う…
常に馬を自分の心の中に勝手につくった檻の中にとじこめようとしてしまっていた。
そして言うことを聞かないと、時に我を忘れて怒った。
あれは決して叱っていたんじゃない、怒っていただけだ。
もう遅いが、本当に悪いことをした…


あの時は心に余裕がなかった…
でもそれはただのいいわけだ。
これから先、より責任ある立場についたら(たとえば子供ができたなら)、そんないいわけは通用しない。

ここまで書いて、いったい誰に向かってこれを書いてるんだと、そして誰に対してそこまで怒っているのか、ようやく気付いた…

それは自分だ。
昨日は夜から明け方にかけ、就職先の同期の方々に遊んでもらう。

楽しかった。
楽しすぎてはしゃぐ。

ボクはかなり人見知りする方だし、どちらかというと苦手な人種も多い。
そんな性格だから、「クラス」とか「部活」とかある種自分で選ぶことのできない枠組みの人たちの集まりでは、居心地の悪さを感じてしまうことが多い。

そんなボクなのに、この「同期」という枠組みの中に囲まれても居心地の悪さを感じるどころか、居心地がよすぎてついつい、その空気に甘えすぎてしまう。

それも、みんなが他人の気持ちにとても敏感で、いい意味で相手を気遣いながら人と接していくのが上手いからだと思う。
周りを気にせず自分のことばかりを自慢げにしゃべり続けるような人もいないし、特別に気を遣ってご機嫌をとらなければいけないような人もいない。
こんなボクが言うのもなんだけど、本当にみんな魅力的で、できた方々だ。

ここにも別れが訪れるのがなんとも悲しい。



■読書メモ
『吉本ばなな自選選集 Life』(「TUGUMI」、「とかげ」)

今日もあたたかかったので、鴨川で読書。
吉本ばななさんの自選選集。
中には昔、一度読んだことがある作品が多かったけど、この前たまたま「TUGUMI」のことが話題にのぼって、また読みたくなったので読む。

内容は見事なまでにきれいさっぱり忘れている。
つぐみは最後死ぬと思ってたし(苦笑)
記憶のすり替え恐るべし…

吉本ばななさんに対するボクの印象は、
「キラキラしてるけど、どこか儚くて悲しい日常を描くのが上手い人。」
というものだったけど、このTUGUMIもその印象どおりの作品だった。

本筋とは直接は関係ないけど、恭一くんの、

「こいつ(飼い犬の権五郎)は、子犬だから多分死んじゃうまでずっとおれの手からめしを食って、ずっと俺といるじゃない、それってすごいことだよな。無心というかさ。少なくとも人間にはありえないだろう。(中略)人間ってどうしても次々に新しいものと出会って、ちょっとずつ変わっていくだろう。いろんなことを忘れたり、切り捨てたり、どうしてもしちゃうしね。やることがいっぱいあるからだろうけど」

というセリフが無性に悲しかった。


「とかげ」は悲しい過去を背負った二人が、同じような悲しい過去を背負う人がすこしでも少なくなるように、自分にできることをしようとする姿が、かなりボクの感性のツボだった。